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スペイン
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「スペイン」のその他の用法については「スペイン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
イスパニアは、この項目へ転送されています。小惑星については「イスパニア (小惑星)」をご覧ください。
スペイン
Espana
(国旗) (国章)
国の標語 : Plus Ultra
(ラテン語: 更なる前進) 国歌 : 国王行進曲 公用語 スペイン語 1
首都 マドリード (マドリッド)
最大の都市 マドリード (マドリッド)
政府
国王 フアン・カルロス1世
首相 ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテーロ
面積
総計 504,782km2(50位)
水面積率 1.0%
人口
総計(2008年) 44,904,000人(29位)
人口密度 85人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年) 1兆0,951億ユーロ[1]ユーロ(EUR, ?)
※スペインのユーロ硬貨
GDP(MER)
合計(2008年) 1兆6,117億[1]ドル(8位)
GDP(PPP)
合計(2008年) 1兆3,968億[1]ドル(11位)
1人当り 30,620[1]ドル
統一 1714年
通貨 ユーロ(EUR, ?)
※スペインのユーロ硬貨(EUR)
時間帯 UTC +1 3(DST: +2)
ccTLD ES
国際電話番号 34
註1 : 地方公用語として、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語がある。
註2 : 1999年以前の通貨は、スペインペセタ。
註3 : カナリア諸島は UTC を採用 スペイン(スペイン語:Espana:エスパーニャ)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島、大西洋のカナリア諸島や、北アフリカのセウタとメリリャや、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。
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国名
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、Espana(エスパーニャ)、Estado Espanol(エスタード・エスパニョール)などが用いられている。Reino de Espana(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられる。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語のSpainに基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。
スペインは、国王を元首とする王国であるが、1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するためにとられた措置であった。しかし、慣例的に「スペイン王国」と呼称する場合も多い。
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歴史
詳細はスペインの歴史参照。歴代君主の一覧はスペイン君主一覧を参照。
先史時代から前ローマ時代 [編集]
アルタミラ洞窟壁画のレプリカアタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[2]。3万5千年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5千年の物である。
この時期の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では二つの民族が交わりケルトイベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの「地理誌」に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[3] 。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国 [編集]
詳細はヒスパニアを参照
メリダのローマ劇場第2次ポエニ戦争でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとなり(帝政期にヒスパーニア・タラコネンシス、ヒスパーニア・バエティカ、ルシタニアの3州に分割)、法と言語とローマ街道によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる[4]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[3] 。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[3]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[4]。
ローマの支配は409年にゲルマン系スエビ族、ヴァンダル族、サルマタイ系アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。スエビ族は現在のガリシアとポルトガルに王国を立て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を立てている。東ローマ帝国も南部に飛び地を確保してローマ帝国再建の手がかりにしようとしたが、最終的にヒスパニアを統一したのは西ゴート王国であった。
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イスラムの支配 [編集]
詳細はアンダルスを参照
グラナダのアルハンブラ宮殿711年、西ゴート王国は北アフリカから侵入したウマイヤ朝とのグアダレーテの戦いで敗れて滅び、イベリア半島のほとんどがイスラム勢力に征服された。イスラムに征服された半島はアンダルスと呼ばれる。半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバラ州そして 北部アラゴン州)のみが征服を逃れて幾つかの小王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる[5]。
イスラムの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として差別を受けた[6]。イスラム教への改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のイスラム教徒)が住民の大半を占めていたと考えられている[7][8] 。
半島のイスラム社会自体が緊張に取り巻かれており、北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[8]。
カリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大都市で、最も豊かかつ洗練した都市であった。地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、イスラム教徒は中東や北アフリカから先進知識を輸入している。そして、新たな農業技術の導入により、農業生産が著しく拡大した。
だが、11世紀に入るとイスラムの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂してしまい、小規模だったキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[8]。北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。[3]
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